11月7日(金)
<今日の市場、明日の対策>
「概要」続落。大幅安。全面安。出来高中。
「データ」 TOPIXは879でー30。
売買代金2.2兆円。値上296ー136値下り。
「原因・売買対象」NY安、円高傾向を嫌気し、朝から売り優勢。後場、一時は下げ渋るも、週末とあって、見送られる。大幅安で引ける。
急変する。しばらく、長期戦覚悟で臨むしかなさそう。オバマ新政権の経済政策への期待高。
米国の金融不安依然。今後の動向が気になる。
「MIテクニカル」 TOPIX値
①長期トレンド;低位圏下降トレンド ②MI256線型;3C―65日型。
③乖離率;ー4.8%中位。 ④騰落レシオ77中位。
⑤サイコロ;5:7の中位。⑥信用評価損率;―35.4 ⑦ファンダ観測;良。
⑧為替(ドル);97.4評価;??点・?色信号―??
「保有K対策」 TOPIX・重合チャート法。保有カブ情報、目先観測。
トムス( ),210でー0。持続。停滞。材料待ち。悪材料出尽くし。
名古屋事務所閉鎖を発表7/4。いよいよ東京市場に移行か。
アニメ業界中、唯一の二桁増益。好調。(19/6/14日経)セガサミー不調。
トヨタ(1格)、3460でー350。持続。好決算好業績。下げ過ぎ、買い増す。
国内販売は不調。全体は好調維持。8500目標に気長で。
三井住友(?)、420千でー7千。持続。早々に乗換えか。対象違い。
コマツ( )、1120でー55。買い増し。好決算好業績。
「注目K動向」 MIタテ残法審査
〇キャノン( )、3270でー200。
〇新日鉄( )、303でー27-
〇信越化( )、4560でー60。
〇ソフトバン(4)、1173でー140。乱高下中
<大局観>
既にデフレを脱却、インフレ時代に入る。
「目先観測」相場予想は不可能。明日はわからない。(過去の実績が証明)
● しばらく、長期戦覚悟で臨むしかなさそう。オバマ新政権の経済政策への期待高。11/6
<一口メモ>
● 豪徳寺、世田谷城址辺り ②
井伊直孝は歴戦の武功によって、徳川家康に信任が篤かったが、江戸初期、
近江の彦根のほかに江戸郊外、荏原郡世田谷村に近郊所領を与えられ、
親藩として優遇されていた。
ある夏の一日、そな直孝が世田谷領で鷹狩をしているとき、にわかに空が
曇りだし、夕立がふってきた。当時の世田谷には農家のほかには家らしい
ものもなかったので、路傍の高徳院という荒れ果てた寺の傾いた門に入っ
て雨宿りをしていた。すると、この寺に飼われているらしい一匹の猫が、
さかんに直孝を手で招くような格好をする。不思議だと思いながらも猫に
ついて行くと、さらに荒れ放題に置き忘れられたような庫裏にきた。その
瞬間、さきほどまで直孝が立っていた寺の門に雷が落ちて、門が焼けてしま
った。直孝は猫のおかげで、あやうく命拾いをしたわけである。
これから直孝は、この寺を福興して菩提寺とし、その猫も手厚く葬った。
いまの豪徳寺とそのなかにある猫塚にまつわる因縁ばなしである。
とにかく、こうして世田谷は、井伊家領として3百年の関係があったので、
井伊家の江戸屋敷に人足も出せば、代官も駐在するし、百姓が井伊家門前で
「桜田門外の変」を実見する機会も起ったのである。
豪徳寺の井伊家の墓所には、数十の墓石が整然と並んでいて、生きている
江戸時代といった感じである。震災も戦災も受けず、大地主として豊かに
存在している。
この寺の右側に、世田谷城址がある。これこそ、豪徳寺の前身、高徳院を
造った吉良氏居城で、天正十八年(1590年)、小田原北条氏と運命を共に
して落城するまで、3百年のあいだ、世田谷領の中心として栄えていた。
いまでも、空堀のあとが残り、土塁が昔のままになっている。四百年前の
染付けの陶片や鉄砲の弾丸が見つかったそうだ。
吉良氏というとすぐ「忠臣蔵」を思い出すが、世田谷の吉良氏も、「忠臣
蔵」の吉良上野介の家ももとは同族である。ともに足利尊氏の子で、関東管
領となった足利基氏の家臣で、一族は、三河国吉良庄の出身だ。世田谷へ
移ってきたのは、吉良治部大輔治家で、六百年前の南北朝のときであった。
世田谷を本城に、松原、赤堤、奥沢など、領内に砦を持っていた。
また、小田原北条氏が盛んになると、それにも服した。が、最後の吉良氏朝
の時、豊臣秀吉の小田原攻めにあい、北条氏と運命をともにして落城した。
一時、逃れたが、家康に招かれ復活し、「忠臣蔵」などには関係しなかった
ので、その子孫はいまでもつづいている。
この世田谷に、江戸時代から名物になっている「ボロ市」がある。足利時代
の世田谷城の城下町に当たる上町に、十二月十五日と一月十五日に開かれる
市で、いわゆる楽市といわれた、城下町繁栄策の無税市である。その伝統は
現在まで続いている。はんぱ物やセコハン物、古着、古釘、古鋸から陶磁器
植木、ざる、臼、杵、鍬、鎌、といった日用品や農具が売られていた。1km.
以上の道路の店店は見て回るだけでもたのしい。そのあいだに団子屋、駄菓子
屋、綿菓子屋、風車、お面、こま、凧などの玩具まで売って、子供たちにも
待ち遠しいたのしい市であった。
とにかく四百年来の伝統をもつ古い市である。しかし、いまでは、むしろ、
一種の風物詩としての意味をもつにすぎなくなった。ボロ市は世田谷名物と
して残したい行事のひとつである。
江戸時代の世田谷は、大部分が井伊家の所領で、そこに将軍直轄の領地の
天領や社寺領が入り組んだ、純農村であった。
こんなのんきな世田谷は、いまの世田谷からは想像もむづかしい。わずかに、
大場代官屋敷と豪徳寺、九品仏に江戸時代の名残りを見るほかは、ほとんど
ぜんぶがおそるべき人家の大群に埋まり、70万人にのぼる人口のベッド
タウンとなってしまった。
以上、松本清張著「世田谷」から抜粋。解りやすい記述で良い学習になった。
● 今日も元気に